三曲とは

ここでいう「三曲」とは、三つの楽曲という意味ではありません。

江戸時代から現代にかけて、日本の音楽として最も普及している3種類の音楽の総称なのです。すなわち、「箏(そう)曲」といわれる箏(こと)の音楽と、「地歌(じうた)」といわれる三味線(しゃみせん)の音楽と、それに「尺八(しゃくはち)」の音楽、以上の三つの総称なのです。

この3種の音楽を、なぜ総称するかというと、この3種の音楽は、それぞれ独立しても存在していますが、特に「箏曲」と「地歌」とは、その演奏者が共通するものであり、また、実際の演奏形式として、本来「箏曲」であった楽曲に、三味線が合奏されたり、あるいは、本来「地歌」であった楽曲に、箏が合奏されたりして、「箏曲」であるか、「地歌」であるか、区別がつかなくなっている面もあり、演奏家も、箏曲家といっても、もちろん、「地歌」の曲も演奏するのが原則となっています。

そして、「箏曲」にしても、「地歌」にしても、箏と三味線との合奏に、もう一つの楽器として、尺八が加えられることがあり、その場合に、特に「三曲合奏」といっています。そこで、そうした演奏形式についてだけではなく、音楽の種類としても、「箏曲」「地歌」「尺八楽」の三つの総称として、「三曲」ともいっているのです。

ただし、「三曲合奏」といった場合、尺八ではなく、胡弓(こきゅう)という擦弦楽器を加える場合もあります。古くは、箏と三味線と胡弓の三曲合奏の方が、一般的であったこともありました。この胡弓の演奏家も、「箏曲」と「地歌」の演奏家と共通していますが、胡弓だけの特別な楽曲もあり、それを「胡弓楽」ということもできます。しかし、その「胡弓楽」は、「箏曲・地歌」とまとめていった場合、その中に含めてしまうこともあり、現在では、「三曲」といえば、「箏曲」「地歌」と「尺八楽」とを総合していう場合が、一般的となっています。

なお、「尺八楽」の演奏家が、「箏曲・地歌」の演奏家を兼ねるといった例は、原則として極めて少ないようです。しかし、専門とする楽器は異なっても、扱う楽曲は共通するものもありますので、大まかには、密接な関係にある音楽の種目として、総合的に扱われているわけです。

そして、最も重要なことは、この「三曲」と総称される音楽は、日本の音楽の中で、専門演奏家による芸術音楽として存在しているだけではなく、家庭音楽として普及しているものとしても、最も一般的なものであるということです。日本の音楽には、いろいろな種類があって、それぞれ特色があります。ただ、演劇とか舞踊などと結びついて、むしろ総合芸術として存在しているものも多く、それを、音楽だけ切り離して演奏し、鑑賞することも多くなってはきましたが、そうしたものにくらべて、「三曲」は、その成立のはじめから、まったく音楽としてだけ存在してきた純粋の音楽としては、その代表的なものといえるでしょう。

また、「三曲」を含めた日本の音楽を、古典音楽とか、伝統音楽とかいうこともあるようですが、たしかに、「三曲」の中には、古典的な名曲が数多くあります。しかし、「三曲」は、決して過去の音楽ではなく、現在数多くの人に愛好され、広く普及している音楽です。かつては、関西の女学校では、箏曲が正課として教育されていたこともありました。現在でも、家庭で「三曲」を学習している人口は、ピアノの人口と比して、むしろ多いかもしれません。そうして、「三曲」そのものは、現代においても、その創作活動は続けられているのです。まさに、現代に生きている音楽なのです。

そうした意味で、少なくとも「三曲」の場合は、単に古典音楽とか伝統音楽とかいって、ふつうの音楽とは異質なものとして扱っていただきたくはありません。もちろん、ヨーロッパ音楽とは、その歴史も理論体系も異なっています。しかし、音楽である点では変わりなく、むしろ、日本で「音楽」といえば、ただちに「三曲」が代表的なものであるといってもよいのではないでしょうか。ちょうど、日本で「言語」といえば、ただちに「日本語」のことが、まず考えられるのと同じように。

「伝統」ということばも、古いものの良さを認める場合に用いられるようです。しかし、ヨーロッパで、伝統音楽というと、普通の音楽とは異なる習俗的な音楽という意味で、芸術音楽に対立するものとしていわれることもあるようです。もし、そうした意味で、「三曲」を日本の伝統音楽というとすれば、「三曲」は芸術音楽ではないということになります。

したがって、誤解を招かないように、「三曲」は、単に「音楽」であるといっていただきたいのです。いわゆる「洋楽」と区別しなければならない場合は、「日本語」を「国語」というように、「三曲」のような日本の音楽は、「邦楽」といっていただければよいのではないでしょうか。つまり、日本で行なわれている音楽には、「洋楽」と「邦楽」とがあるわけで、「三曲」を含む「邦楽」も、音楽であるということを、まず認識していただきたいと思います。

筝曲とは

「箏曲」について説明する前に、「箏」について少しだけ触れておきます。

この楽器は、もともとは、「雅楽(ががく)」という古代成立の管弦楽の編成楽器の一つであったのです。したがって、箏の音楽として考えるとすれば、当然雅楽のことも考えなければなりませんが、現在、ふつうに「箏曲」といっている音楽には、この雅楽の音楽は含まれませんので、ここでは、雅楽の箏については、一応除外しておくこととします。

また「箏」という楽器のことを、ふつう「おこと」ともいっています。そうして、漢字をあてはめる場合、むしろ「琴」という字をあてて、「お琴」などと書く場合も多いようです。しかし、「琴」と「箏」とは、本来異なる楽器です。そうして、「こと」ということばは、「琴」も「箏」も含めて、むしろ弦楽器全部の総称として用いられた時代もあったのです。

ただ、江戸時代でも、すでに「琴」と「箏」とは、用字法の上で混用されていました。したがって、現在、「琴」という楽器、それは、狭義には「七弦琴」のことをいいますが、その琴が、ほとんど実用されなくなってしまっているので、「琴」と書いても「箏」のことをいう場合が多いのです。しかし、ここでは、正しい字として、「箏」の方を用いておきます。ただ、当用漢字の音訓の制限上、「ことづめ」などを漢字で表記する場合、「箏爪」と書くよりは、「琴爪」と書いた方がわかりやすいこともあるので、そうした場合に限って「琴」の字を用いても差し支えはありません。

ついでに述べておきますと、「絃」という字も、すでに江戸時代以来「弦」とも書かれてきました。後述の「三味線」のことを「三弦」ともいいますが、明治以来「三絃」と書く方が一般的であったので、専門家は、たいてい「三絃」と書いています。しかし、これは「三弦」と書いても誤用ではありません。当用漢字としては、「絃」の字がないので、これは、むしろ「三弦」と書く方を採用しておきます。

もう一つついでに、「唄(うた)」と「歌」ですが、邦楽の歌は「唄」と書く方が古典的であるように思われています。しかし、これも必ずしもそういえません。「ことうた」とか「じうた」といった場合は、むしろ「箏歌」「地歌」と書かれることもあったのです。特に、「地歌」は、もともと関西で起こった名称ですし、関西では、ほとんど「地唄」と書いた例はなかったようですから、この場合も、「唄」という字が当用漢字にはないことですし、ここでは「地歌」という書き方を、むしろ正式なものと認めておきます。江戸の三味線音楽である「江戸長唄」などは、慣用的に「唄」の字の方が多用されていますので、「地歌」の「長歌」と区別する意味でも、「長唄」と書くのは差し支えありません。

さて、「箏曲」ということばも、誤解されていることがあるようです。それは、「ピアノ曲」といえば、器楽曲、それも独奏曲をいうことが多いためでしょうか、「箏曲」も、箏の独奏の器楽曲であると誤解される場合があるようです。

しかし、「箏曲」という日本語は、箏の音楽の総称として用いられます。器楽も声楽も含みます。のみならず、独奏の場合でも、「箏曲」の場合は、1人の演奏者が、みずから箏を演奏しながら、歌も自分で歌うという、いわゆる「弾(ひ)き歌い」の演奏形式があります。箏歌曲の独奏といってもよいでしょうが、歌にも楽器にも同等の比重がありますから、厳密には、歌曲と定義するわけにも行きません。

さらに、合奏の場合、箏のパートだけとは限りません。三味線のパートが加えられ、尺八のパートまであっても、原曲が、箏の曲として作られたような場合や、箏に比重がある場合には、単に「箏曲」ということもあります。特に、三味線や尺八のパートもあるということをはっきりさせる場合には、前述の「三曲」という用語を用います。そして、この「三曲」の合奏の中において、箏や三味線の奏者が、「弾き歌い」として歌唱も担当するということも多いのです。一般に、古典曲の場合には、まったく歌を伴わない器楽曲は、むしろ例外的であるともいえます。

《六段の調べ》のような曲は、大変有名であって、しかも古典的名曲であることはたしかですが、必ずしも箏の独奏だけとは限りませんし、場合によっては、この曲を三味線だけで演奏するということも、皆無ではありません。そして、演奏形式はともかく、この曲が、「箏曲」の代表曲の一つであることは事実なのですが、しかし、箏曲の概念からいうと、むしろ例外的な曲であるとさえいえるかもしれません。

もともと、箏曲を芸術的な音楽として完成させた最初の人といわれる八橋(やつはし)城談(1614~85)という音楽家の作品には、前期の《六段の調べ》のような器楽曲もありますが、数の上では、「組歌」といわれる歌曲形式の箏曲の方が多かったのです。最も狭義に「箏曲」といえば、「箏組歌」といってもよいのです。この「箏組歌」には、原則として、三味線や尺八または胡弓が合奏されるということは、まずありません。

しかし、八橋以後において、「地歌」の三味線曲に、箏が合奏されることも多くなりました。そうして、江戸時代の後半には、はじめから、三味線のパートも箏のパートも、同時に作曲されるか、箏のパートを加えることを前提とした三味線曲が多くなりました。それらの曲には、もちろん歌の部分もあるのですが、かなり長い間奏の器楽性に比重があります。そうした曲は、「地歌」というよりは、むしろ「箏曲」といった方が、適当であるかもしれません。

とにかく、こうして「箏曲」ということばが示す内容は、大きく拡大されるようになりました。そうして、同時に、箏だけを主奏楽器とするもので新しい形式の曲も、江戸時代末期から明治にかけて、さまざまに作られました。たとえば、《四季の眺め》とか《八重衣(やえごろも)》といった曲は、三味線のパートと箏のパートとが、ほぼ同時に作られた曲ですし、《五段砧(ごだんぎぬた)》とか《千鳥の曲》といった曲は、江戸時代後期に、新しい形式の箏曲として作られたものです。

ところで、もう一つ、江戸時代の後期には、特に江戸において、新しい形式の箏曲が創造されました。それは、江戸の山田斗養一(とよいち、1757~1817)が創始したもので、江戸で行なわれていたさまざまな三味線音楽を、箏を主奏楽器とする音楽として改変したものです。それも、既成曲の編曲ではなくて、そうした新しい音楽として、《小督曲(こごうのきょく)》など数多くの作品を作りました。

結果としては、当時の江戸の三味線音楽が声楽に重きを置いていたので、この山田斗養一の新作も、声楽本位の曲が多く、つまり、箏を主奏楽器とする新歌曲を創造したものといえます。そして、この箏曲にも、三味線も合奏され、現在では、もちろん尺八も加えられ、曲によっては、胡弓も合奏されます。

その後、江戸では、この形式の箏曲の伝承と、新作品の創作が続けられました。こうした箏曲を、特に「山田流箏曲」といいますが、ただ、山田流箏曲の演奏家は、他の「箏曲」や「地歌」を演奏しないというわけではありません。また、この「山田流」に対し、それ以外の箏曲家を、八橋城談の孫弟子の生田(いくた)幾一(1656~1715)の名にちなんで、「生田流」ということもあり、結局、生田流と山田流とでは、レパートリーに多少のちがいがあることになりますが、本質的には、同じ箏の音楽を扱うものであることにはかわりなく、共通するレパートリーも多いのです。

明治のはじめに、文部省に音楽取調掛(現在の東京芸術大学音楽学部の前身)が設けられ、その仕事の一つとして、日本の音楽を採譜・改良するということが行なわれましたが、その結果、明治21年に『箏曲集』という五線譜が刊行されました。

そこでは、生田流とか山田流とかの区別を立てず、古典的な組歌や《六段の調べ》などはもちろん、本来、山田流箏曲であった曲も、また、地歌であった曲も、すべて「箏曲」として扱い、さらに、新時代に国際的に日本の音楽を紹介するのにふさわしいように、新しく創作されたり、編曲・編調された曲も含まれています。こんにち、「箏曲」としてより、日本の古い歌として有名な《さくら》なども、実は、この明治21年の『箏曲集』で五線譜化されて広まったものなのです。

なお「山田流箏曲」としては、叙事的・劇的な歌曲が重んじられてはいますが、《さらし》や《岡康砧(おかやすぎぬた)》のような、間奏の器楽性に比重のある曲もあります。

こんにちでは、山田流の曲でさえ、山田流以外の演奏家が演奏するといったことも皆無ではなく、箏の音楽としての特質からいえば、山田流独自の曲も、「箏曲」であることにかわりはありません。とにかく、生田流・山田流のちがいは、多少のレパートリーの差であって、いわゆる封建的な家元制度的な流儀差ではないということを、はっきりと認識しておいていただきたいと思います。

三味線楽及び地歌とは

「三味線楽」すなわち三味線の音楽には、いろいろな種類があります。

しかし、その三味線という楽器を、日本人向きに改良し、そうして、その芸術的音楽としての楽曲を作った最初の人たちは、それまで「平家琵琶(へいけびわ)」の音楽を扱ってきた人たちでした。すなわち、音楽を職業とする人たちだったのですが、その中でも、柳川(やながわ)応一(?~1680)という音楽家が、まず、芸術音楽としての三味線楽を、組織的な形にまとめるということをしました。実は、「箏曲」の芸術音楽としての作曲を最初に行なった八橋城談も、はじめは、柳川応一といっしょに、三味線を演奏していたのです。

柳川応一は、それまでに作られていた三味線の歌曲を集めて、それらを改作したり、あるいは、みずから作曲も行なって、芸術的な三味線伴奏の歌曲の形式を整えました。それは、歌詞の上では、いくつかの短い別な歌が組み合わされている形式で、ちょうど箏曲の方でも、最初に芸術化されたものが「組歌」であったのと、期せずして似たような結果となりました。こうした曲を、三味線の方では、最も基本的なものという意味で、「本手(ほんて)」といいました。現在では、「箏組歌」に準じて、この「本手」のことを「三味線組歌」ともいっています。この「三味線組歌」には、箏や尺八が合奏されるということはありませんでした。

その後、この組歌形式の「本手」に対して、歌詞の上では一曲を通じて長いまとまりを持った「長歌(ながうた)」と呼ばれる歌曲形式のものも作られ、さらに、その「長歌」に対して、演劇の中で用いられたり、芸術的な演奏の場以外で演奏されたりした曲を、「端歌(はうた)」と呼びました。

こうした三味線の音楽を演奏した人たちは、同時に箏の音楽も扱っていました。つまり、当時の職業的な音楽家は、琵琶も三味線も箏も、そして胡弓まで扱っていたのです。ただ、琵琶は、「平家物語」を語る伴奏として用いられていたので、三味線や箏と合奏させるということはなかったのですが、前記の「長歌」や「端歌」といった曲は、三味線の音楽として作曲されたものではあっても、これに箏を合奏させるということも行なわれ、また、曲によっては、胡弓も加えられたのです。

もっとも、歌舞伎や、人形芝居の方では、演劇や舞踊の伴奏音楽としての別の三味線音楽も発達して行きましたが、一般家庭の人も学んだり演奏したりするもので、音楽だけを楽しむものとしては、こうした「長歌」や「端歌」の曲が、最も普及して行きました。

そのうち、その「長歌」や「端歌」の間奏部が、しだいに器楽性を持つ長いものに発展し、その部分だけを独立させて鑑賞することも可能なような形のものになり、その部分は、三味線だけでも異なるパートの合奏も行なわれるようになりました。こうした部分を、「手事(てごと)」といい、こうした部分を含む曲を「手事もの」というようになりました。

この「手事もの」で、異なる二つのパートがある場合に、主旋律のパートを「本手」といい、もう一つのパートを「替手(かえて)」といいました。「替手」は「本手」に対して、対位旋律であったり、装飾的な旋律であったりします。ただし、このパートが、単に「本手」の旋律を、時間的にずらしたり、同じ類型的な音型を連続的に繰り返すものであったりする場合には、「地(じ)」といいます。

一方、こうした三味線曲に合奏される箏の旋律は、はじめは、三味線とほぼ同じ旋律であるか、あるいは、時間的にずらしたりするだけのものでしたが、しだいにその技巧が発達して、前記の「替手」のパートを箏が受け持ったような形にまでなりました。そして、「箏曲」の説明でも述べたように、最初から、そうした箏のパートがあることを前提として作曲されるようにまでなったのです。こうした曲は、三味線の曲といってよいか、あるいは、箏曲といってよいか、どちらともいえないようなものになったのです。

以上に述べた三味線の音楽は、主に関西で発達してきました。ところが、江戸時代の後期には、江戸で発達していた演劇に付随する三味線音楽が、関西でも流行するようになりました。そこで、もともと関西の土地で発達してきた三味線の音楽の中で、以上に述べた音楽本位の曲を、「地歌(じうた)」と呼ぶようになりました。

「地歌」の「地」とは、関西の土地を意味したものと思われます。そうして、必ずしも歌曲だけではなく、前述したような「手事もの」も含んで「歌」といったのは、関西では、人形芝居の三味線音楽として、「義太夫節」の「浄瑠璃」と呼ばれるものがあり、それは一種の「語りもの」といわれる朗誦(ろうしょう)性に富むもので、しかも対話部分を含むものであったので、それに対して、わざわざ「歌」といったものと思われます。つまり、古くは、「浄瑠璃」に対して、単に「歌」といっていたものが、江戸のものに対して、特に「地歌」というようになったと思われます。

そこで、こんにちでは、「箏曲」と関係の深い三味線音楽の曲を、「地歌」と総称するようになったのですが、場合によっては、単に「箏曲」とだけいっても、「箏曲・地歌」を省略したような意味で、そこには当然「地歌」の三味線音楽も含んでいうことがあります。

ここで、注意しなければならないことは、こうした「地歌」の三味線音楽の歴史は、いろいろな形式の曲が、時代を追って単に新しく創作され続けてきたというだけではなく、同じ曲の演奏の形式も、時代を追って、さまざまに発展してきたということです。

たとえば、《さらし》という曲があります。この曲は、本来「長歌」として作曲された曲です。それが、その手事部分が器楽性を持つものに改作され、のちには「手事もの」として扱われるようになります。ところが、さらに、これに箏が合奏されるようになります。そして、その箏の旋律も、しだいに複雑なものに発展して行って、箏を主にした演奏さえ行なわれるようになります。その上、全体的に、あるいは箏、あるいは三味線の旋律がいっそう複雑なものとなり、即興演奏も加えられるようにまでなっています。

また、《八千代獅子(やちよじし)》という曲があります。この曲は、もともとは尺八の曲であったものを、胡弓の曲に移し、さらにそれを三味線の曲にかえて、「長歌」または「端歌」として扱うようになったのです。それが、さらに「手事物」として扱われるようになり、そして、箏の旋律もつけられて箏曲としても扱われるようになります。《岡康砧(おかやすぎぬた)》という曲などは、もともとは三味線の曲であったともいい、また、はじめから胡弓の曲であったともされます。それが、胡弓の曲として伝えられたものを、箏曲化し、さらに三味線も加え、異なるパートの箏の旋律、すなわち箏の替手も幾つか作られています。

《六段の調べ》にしても、もちろん箏曲として作られたものですが、かなり早くから三味線の曲としても演奏され、そして、まず三味線の替手が作られ、それが箏に移されて、箏曲の原曲と合奏され、いわゆる本手と替手の箏の合奏の形式にも発展して行きます。

とにかく、このように「地歌」と「箏曲」との区別は、ますますつけがたいものになってきたのです。そうして、箏曲のところで述べたように、山田流の演奏家も、もちろんこうした「地歌」三味線曲の箏曲化されたものも演奏しますし、その場合、本来は「地歌」であったという意識が薄れてしまっている場合もあります。

以上のことは、非常に複雑なようですが、本来、このような箏と三味線、そして胡弓を扱ってきた音楽家が、同じグループの職業的音楽家であった以上、こうした現象は当然のことで、箏と三味線とが不即不離の関係にあるのみならず、「箏曲」と「地歌」とは、不可分の関係にあるといえるのです。

尺八楽とは

「尺八楽」とは、もちろん「尺八」の音楽のことをいいますが、こうしたことばが、古くからあったわけではありません。むしろ、単に「尺八」といっても、それがその音楽のことまで含む場合もありますが、ここでは、楽器としての「尺八」と区別して、「尺八」の音楽を「尺八楽」ということにしておきます。

「尺八」といっても、古くは、現在の尺八とは異なる形態のものがいろいろとありました。

もともと「尺八」ということばは、中国のことばですし、中国で基準とされる高さの音を出すことができる管が、その当時の中国の尺度法の1尺8寸(日本の尺度法とは異なりますから、必ずしも54.54センチとは限りません。43.7センチくらいであったろうと考えられています)であったことから、この名がつけられたといわれています。

したがって、「尺八」という楽器も、中国から渡来した楽器です。それも、かなり早くから渡来したものらしく、奈良の正倉院には、そうした古代の尺八が残されています。この尺八は、指孔(ゆびあな)が、前に五つ、後に一つ、合計六つあけられています。

その後、現在と同じような、前に四つ、後に一つ、合計四つの指孔を持つ尺八が渡来してきました。この渡来は、いつのことかはっきりしません。あるいは、鎌倉時代以後のことかもしれませんが、とにかく、かなり古くから5孔尺八も、日本に伝えられたようです。

その5孔尺八にも、いろいろな長さや形のものがありました。今の尺八と同じような形のものもあれば、全体にまっすぐで、竹の節(ふし)が一つしかないものもありました。この1節でできている尺八を、特に「一節切(ひとよぎり)」といいました。

この一節切の尺八は、特に江戸時代のはじめには、非常に流行しました。箏や三味線と合奏された尺八は、はじめは、この一節切の尺八であったようです。ただし、一節切の尺八にも、いろいろな長さのものがあったのですが、この合奏に用いられたものは、特定の長さのもの(1尺1寸8分)であったようです。《六段の調べ》や《みだれ》のような曲の原曲と思われる曲が、箏・三味線・一節切の合奏で演奏されたことを示す楽譜も残されています。ほかに、一節切独自の独奏曲もいろいろとあったようです。

これに対して、今の尺八と同じ形の尺八もかなり古くからあったようです。それは一節切とは別に存在していたはずなのですが、ただ名称が混同されていたこともあって、その区別がはっきりしません。しかし、一節切を改良して今の尺八になったわけではなく、はじめから一節切とは別に、今の尺八の祖と思われるものが存在していたのです。

この尺八は、かなり古くから、地方地方の民俗的な音楽の楽器としても用いられていたようです。すなわち、現在でも行なわれている民謡の伴奏のような用いられ方は、かなり古い時代にさかのぼることができると思います。しかし、そういえば、三味線や胡弓にしても、かなり古くから地方の民俗音楽としても用いられてきており、民謡の伴奏のみならず、地方独自の語り物音楽や、郷土芸能のお囃子(はやし)の編成楽器にも加えられていたようです。ここでは、そうしたものは、いちおう除外して述べて行くこととしましたので、尺八の場合も、そうした民俗音楽としての用いられ方については、ここではあまり触れないこととします。

さて、今の尺八が音楽に用いられた、その最初は、普化(ふけ)宗の僧侶の法器としてでした。つまり、仏教の儀式や修行の具であったわけなのですが、その場合に、楽器というのは、あるいは当たらないかもしれません。しかし、広く考えれば、こうした音楽性を持った宗教行事の音は、宗教音楽といえると思いますので、まず当初は、尺八は宗教音楽の楽器であり、その音は宗教音楽として存在したといってもよいのではないかと思います。

さて、この宗教音楽としての尺八の芸術化を行なった人として、初代黒沢琴古(1710~1771)の名があげられます。この黒沢琴古が整理集成したものを、現在では「琴古流本曲(きんこりゅうほんきょく)」といっています。当初は33曲に整理されていたようですが、今では36曲を数えています。この本曲が、いわば、芸術音楽としての尺八曲の最古典なのですが、注意していただきたいことは、この初代黒沢琴古も、やはり普化宗に属した人であったということです。つまり、あくまでも、この本曲は宗教音楽としての音楽であったもので、その中で音楽的向上をはかって整理されたものであるということです。それまでの宗教尺八とはまったく別の音楽を創造したというわけではありません。

その後、明治になって、普化宗の制度が変わってから、純粋に音楽としてのみ尺八を扱うようになったのです。そうして、それと同時に、この尺八を、箏や三味線と合奏させることも盛んとなり、いわゆる尺八を加えた三曲合奏が普及するようになったのです。この合奏曲は、それぞれ原曲の作曲事情からすれば、箏曲なり地歌なりであったわけですが、三曲合奏として行なわれる楽曲を、尺八の方からいえば、尺八の「外曲(がいきょく)」ということになります。 ここでも注意しなければならないことは、この尺八を加えた三曲合奏は、明治になってはじめて行なわれだしたのではないということです。それは、江戸時代の中頃から、すでに行なわれてきたことです。それが、明治以後になって、非常に盛んになったということなのです。

もう一つ、尺八の流儀として「都山(とざん)流」ということがいわれますが、尺八の流儀は、琴古流と都山流だけではありません。明治以後にも、宗教的立場を守り続けた人びともあったのです。そうした派の人たちは、京都の明暗寺を中心としているので、「明暗(めいあん)流」などと総称されますが、これは俗称であって、さらにその中でも細分された流派もあるのです。

こうした明暗系の尺八に対して、音楽的立場を主にする流派が、琴古流と都山流、あるいはそれから分かれた流派ということになります。いわゆる三曲合奏を行なうのは、この系統の人たちということになります。

この都山流で、「本曲」と称する曲は、琴古流の本曲とはちがって、その始祖である初代中尾都山(1876~1956)が、新しく創作した曲が大部分です。したがって、都山流尺八の本曲は、箏曲の明治新曲や新日本音楽などとともに、いわゆる創作曲として扱いうるものといえます。

しかし、とにかく以上が、「尺八楽」として扱いうる音楽の概要です。そして、音楽として見た場合、以上に述べた尺八の音楽は、すべて尺八という楽器の特性に基づく音楽でもあり、そして三曲合奏という点では、「三曲」という総合芸術の一要素としての特色を持つものなのです。その上、この他の楽器との合奏という点では、他の箏や三味線についてもいえることですが、今後において、いろいろな他の楽器と組み合わされ、新しい日本の音楽を創造するのに、無限の可能性を持つものであるともいえるのです。